ネガティブな記憶は残りやすい。
「私の人生、排除されてばかり…」
そう思い込んでいましたが、よくよく振り返ってみると、そうでもなかったかもしれません。
排除された記憶が上書きされてしまう理由
排除された記憶はとてもネガティブで、脳に強く刻まれます。
一方で、「ここにいていいよ」と受け入れられた経験はうれしいことだけど、ポジティブな記憶に残りにくいため忘れてしまっています。
だからこそ、うれしかった・温かく感じた記憶を意識的に拾い直すことが必要だと思いました。
ネガティブな「排除の記憶」を思い出しやすいというだけで、受け入れられた経験がなかったわけではありません。
「ここにいていいよ」は、数より質
学校も職場も、社会である以上「ここにいていいよ」は条件付きです。
誰もがなんらかの役割を持っていて、その役割を果たせたら「ここにいてもいい」となるんだと、私は感じています。
「役に立てば」
「空気を読めれば」
そこにいていい。
学校や職場というのはそういう場所なんだと思っています。
そんななかでも、無条件に「ここにいていいよ」と言ってくれた優しい人もいたことに、ふと気づきました。
数は少なくても、その言葉は深く刻まれていて、私が生き延びる糧になっていたのだと気づきました。
中学生のとき、なんの取り柄もない私を「優しい」「おもしろい」と言ってずっと一緒にいてくれた女の子。
ある職場で、辞めるときに「いつでも戻ってきていいんだよ」と言ってくださった上司。
泣いて引き止めてくれた同僚もいました。
改めて書いてみると、私は優しい人たちに囲まれていたことがわかります。
でもそれがすべてかき消えてしまうくらい、ネガティブな「排除の記憶」って強烈なんですよね。
「役割」で成り立っている人間社会
人間社会は「役割」で成り立っています。
役割を果たせる人が居場所を得られる、という構造がある。
それ自体は社会の仕組みとして理解できるのですが、問題は「役割を果たせない=存在を否定される」という感覚が生まれてしまうことです。
この構造があることで、境界知能の私は学校でも職場でもとても窮屈に感じていました。
でも今は、自身の能力を理解して「自分にできることは何か」を考えます。
認知機能が弱い分選択肢は少ないですが、自分を知ることで「自分の役割」を選べる立場にいて、以前とは違う生き方ができていると感じています。
「排除される私」から「合う場所で必要とされる私」へ
排除されてきたのは、私に問題があったからではありません。
ただ単に、私がその場所と合わなかっただけです。
私はずっと「排除された」というネガティブな記憶を積み上げて、「私の人生は排除の連続だった」と思っていました。
でも本当は、必要とされてきた経験もちゃんとありました。
それをこれからは、もう少していねいに拾い上げていきたいと思っています。

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