私たちは今、「自分の状態に名前をつけられる時代」に生きています。
発達障害、境界知能、HSP、APD……
これらの言葉が指す人たちは、みんな昔から存在していました。
平成・令和になって急に人類が変わったわけではありません。
言語化によって救われること
私は境界知能です。
「境界知能」という言葉を知る前は、自分がなぜ人と違うのか、なぜ努力しているのにうまくいかないのかが説明できませんでした。
自分の状態に名前がついたことで、自分のことを理解でき、他人にも説明でき、対策を考えられるようになりました。
言葉があるということは、こういうことです。
自分を理解できる。
他人に説明できる。
対策・工夫・配慮を考えられる。
言語化によって「恩恵を受けた側」として、この変化は本当に大きかったと感じています。
言語化は「線引き」も生む
一方で、言葉ができることには副作用もあります。
昔は「変わってる人」「ちょっと不器用な人」「我慢が足りない人」と、雑にひとまとめにされていたものが、今は細かく問われるようになりました。
どこまでが特性? どこからが努力? どこまでが配慮? 誰がどこまで我慢する?
多様性の時代が進む一方で、マジョリティ側だった人たちが「配慮する側」「説明される側」「気をつける側」になりました。
役割が変わったのです。
私が感じている「健常者も大変そう」という感覚は、ここから来ているのかもしれません。
「なんでも病名つけるな」という反発の正体
「なんでも病名つけりゃいいってもんじゃない」
これは単なる否定ではなく、もっと複雑な感情があると思っています。
これまで暗黙で回っていた社会が、
説明責任を求められるようになった。
「空気読め」「察しろ」が通用しなくなった。
自分も言語化を迫られる側になった。
この戸惑いが、言葉にならない「生きづらさ」や「面倒くさい」につながっているのではないでしょうか。
つまりこれは、弱者 vs 強者の話ではなく、全員が「言葉の前に立たされる時代」になったということだと思います。
言葉があるから「選べる」ようになった
言語化できるようになった分、必要になるのは——自分を説明する力、自分の状態を選び取る力、そして「言葉にしない自由」でもあります。
全部を言葉にしなくてもいい。
開示するかどうかも選べる。
でも、その選択肢があること自体が、言語化があってこそです。
言葉がなければ、そもそも選択肢はありません。
まとめ
この変化を「良い・悪い」で片づけることは難しい。
私のように救われた人がいる一方で、新たな重荷を背負った人もいる。
それが今の「多様性の時代」の正直な姿だと思います。
ただ、どちらの立場にいても、「言葉があることで見えるようになったもの」を大切にしながら、互いのしんどさを認め合える社会になっていけたらと思っています。

コメント