「負の連鎖を断ち切りたい」
職場で自分が嫌な思いをしても、同じことを誰かにしない。
「傷ついた経験を配慮に変える」、そういう選択をしてきました。
「負の連鎖を断ち切る」というのは、変化をもたらす行動です。
そして変化をもたらす存在は、思考停止で現状維持している集団から見るとどうやら目障りらしい。
「あぁ、だから私は排除されやすかったのか」と、ようやく気づくことができました。
思考停止で動く集団へ投げかける疑問は「空気を読まない行動」になる
人の集団には「暗黙のルール」があります。
「ここではこうする」
「みんなこうしてきた」
「それが普通」
誰もそれを疑わないし、疑う必要も感じていない。
現状維持でうまくいっているように見えるから。
現状をみて抱く、私にとって素朴な疑問。
でもこれは、「空気を読まない行動」ととらえられてしまいます。
なぜ排除されるのか
私が投げかける素朴な疑問には、こんな効果があるようです。
考えなくて済んでいたところに異を唱える人が現れると、考えさせられる。
「考える」ってかなりエネルギー使う活動だから、疲れるんですよね。
さらに今まで正当化してきたことが揺らいでしまうから、思考停止で動いている人ほど動揺が大きくなる。
今までにない経験に警戒するのは、人として自然な反応だと思います。
私が抱く“素朴な疑問”は、「余計なこと」「浮いている」「扱いづらい」となりがち。
だから許容できる【変化の幅・多様性の幅・思考の幅】が狭い人が多い場では、私は「余計なことをする扱いづらい人間」になってしまいます。
合う場では、なぜ大事にされるのか
一方で、物事を長期的に見たり、感情と行動を分けて考えられる人がいる場では
これらの行動がちゃんと評価されます。
合わない場では欠点でも、合う場では美点になりうる。
場によって、人の評価は大きく変わります。
合わない場に居続けても消耗するだけ
「受け入れてもらうためには、どうしたらいいんだろう…」
うまく馴染めるように、波風立てないように、自分を削りまくって周りに合わせる。
そんな努力をしたところで、ムダに消耗するだけです。
他人の好みや価値観は操作できない。
私を受け入れるのか排除するのか、判断して行動するのは私以外の人です。
そもそも、人は全員には好かれません。
「合わない場に居続ける」という行動は、じわじわと自分を追い詰めます。
「ここは私がいていい場じゃない」という判断が、未来の自分を助ける可能性を大きくする。
合わない場に無理に合わせて自分を削らない、理由をつけて居続けないことが大切です。
結局、構造はシンプルだった
自分が浮いてしまうのも、人に受け入れられないことも、すべて「自分のせい」と思い込んでいました。
でも構造はとてもシンプルでした。
ただ、自分が選んだ場と自分が合わなかっただけ。
うまくいかないたびにつらく感じていましたが、「なぜ排除されるのか」という構造がわかった今は腹落ちしています。
傷ついたのは事実、でも排除されて傷ついた経験があったからこそわかったこと。
おかげで私は、
という判断・行動ができるようになりました。
今までの傷ついた経験もムダじゃなかったと、今は思えます。

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