高校生のとき、ケータイ代も遊ぶお金も、全部アルバイトで賄っていました。
自動車学校の費用も、車を買うお金も、成人式の振袖も、すべて自分のバイト代からです。
周りのみんなは、そういったお金を親が出してくれるのが当たり前でした。
夜にテレビを見る時間なんてなかったので、学校では話題についていけず、「話通じなくてつまらない」と言われたこともあります。
あのときは悔しかったです。
「みんなが夜テレビ見てるとき、私は働いてるんだぞー!」って。
声には出さなかったけれど、心の中ではムキーッo(`ω´ )oってなってました(笑)
「全部自分でやった」と思っていた
私はずっと「学生時代に全部自分で賄えた私、エライ!」と本気で思っていました。
でも最近、それは少し勘違いだったなと思っています。
何もかも自分の力でやっていたわけではないからです。
運よく土台があったから、「がんばれる場所」が存在していて、私はその土台の上で自分にできることをしただけでした。
この土台がなければ、きっと何もできなかったと思います。
そもそも土台があること自体が、運です。
それなのに、周りの大人が「バイトしてえらいね!」「全部自分でやってすごいね!」とたくさん褒めてくれるので、それを真に受けて「全部自分の力だ!」となってしまっていたんですよね。
土台の上で、私がやったこと
とはいえ、じゃあ私は何もしていなかったのがというと、そうではありません。
土台(バイトできる環境)があっても、バイトしない人はいます。
稼いでも無計画に使ってしまう人もいるし、バイトが続かない人もいます。
私は土台の上で、
- 面接を受けて雇ってもらい
- 継続して働いて
- 稼いだお金を計画的に使っていました。
これは本当のことです。
だから大人たちも褒めてくれたのだと思います。
ただ、「全部、自分だけの力だ」という認識が、ちょっとズレていただけでした。
当時の大人たちが見てくれていたのも、「なにもかも自力でやってる」ということではなく、物事に対する“責任感”や“続ける姿勢”だったんだと思います。
それを勘違い込みでそのまま受け取ってしまったのは、私の単純さでもあり、素直さでもあります。
同じバイト先にいた、自分で学費を稼ぐ子の話
同じバイト先に、学費を自分で払って学校に通っている子がいました。
平日の早朝にバイトをしてから学校へ行くその子をみて、本当にすごいなと思っていました。
「自分エライ」と本気で思っていた私は、そのとき少し自分を恥じました。
大人になった今、改めて思います。
うまく言葉にはできなくても、「いろんな境遇の人がいる」ということを、感覚として若いうちに知れるのは大事なことだなと。
過去の自分を否定しているわけではない
今回の気づきは、過去の自分を否定する話ではありません。
あのころのがんばりは本当のことだし、「全部自分の力だ!」とちょっと勘違いしていたのも事実です。
褒めてもらった記憶も、とても大切にしています。
私は今まで褒められることがあまりなかったので、数少ない「褒められた体験」は貴重な記憶として、心の中に大事にとってあります。
物事をそれぞれの背景や土台込みで見られるようになってきたことには、人としての成長を感じています。
今の私が思うこと
そもそも「がんばれる土台」がないとがんばれません。
「がんばる!」「努力!」と、力む必要はないんだと思います。
どんなに小さなことでも「今、目の前のことを“やりきる”」。
その行動が積み重なって、結果的に「がんばった」「努力した」ことになるんじゃないかなと、今は思っています。

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